松山城(吉見町)


こんにちは!
安・近・短・埼玉戦国シリーズ 第2弾 松山城 吉見町の紹介です。
松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。
城の起こりは 新田義貞鎌倉幕府北条高時を攻撃した時、仮に要害を築き用兵を駐屯させた事に始まり、本格的な築城は、小川町腰越付近に勢力のあった上田左衛門尉友直と伝えられるが不明だそうです。
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応永23年の鎌倉六本松の合戦において「松山城主上田上野介討死」とあることから、応永年間(1394~1428)には松山城は存在していたと推定される。しかしながら、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細なことは不明である。歴史的には、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させたと思われる。
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天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も後北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、後北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。
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松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家上杉景勝などの軍勢が攻め落とし(落城)、小田原に本拠を構えた後北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。
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関東制覇を進める後北条氏は、天文6年(1537年)に河越城を占拠し、戦国の三大奇襲戦といわれる天文15年(1546年)の河越夜戦では公方足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏らを破り、着実に勢力を拡大していった。天文21年(1552年)関東を追われた上杉憲政は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、上杉の姓と関東管領職を譲った。永禄二年(1559年)、上洛した長尾影虎は、上杉憲政を支援し後北条の支配から関東を回復することを将軍足利義輝から要請された。そのため永禄三年(1560年)以降、影虎は旧上杉氏の所領である関東にたびたび進出し、北条氏康・武田信玄らと合戦を繰り広げたのである。
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松山城跡はこうした歴史的背景の中で存在した山城で、東に広がる広大な関東平野と戦国期の山城が集中する西の山間部の分岐点に存在する北武蔵支配の重要拠点であった。
昔、ここに神社があったことが 伺えるようなものが 残されていました。
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戦国の 武将が たくさん出てきましたね!ここは関東を支配する為には とても重要な 場所だったんですね。
最後は場所の確認をしましょう!

吉見百穴の側にあります。
百穴の見学と同時に見てはいかがでしょうか?
岩室観音の奥に入って登っていけますが 県道沿いの こっちの方が安全です!
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それではみなさんいってらっしゃい!
岡ポン評価
5段階評価(俺3以下の通信簿だったな!)
景観  3 お手軽度 3 感激度 3 


旅の参考に!
吉見町  東松山観光協会  まとめて埼玉県西部エリア    

僕の記事で申し訳ありませんが
嵐山史跡の博物館  埼玉・群馬の戦国時代
吉見百穴の記事  東松山のやきとり  道の駅吉見  川幅日本一  川越夜戦の碑


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