菅谷館跡 (嵐山町)

こんにちは!
埼玉戦国シリーズ第1弾!安・近・短・!
嵐山町の 菅谷館跡
菅谷館跡は、広大な面積を持つ複郭式の平城です。
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館跡の南側は、都幾川の流れにより浸食されて切り立った崖となり、東と西側には、台地に直行する谷が幾筋も形成されており、館跡は、これらの地形を巧みに利用しています。
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畠山重忠
初め頼朝に敵対したが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲や平氏の追討、さらに奥州征伐などに戦功をたてた。その間、伊勢沼田御厨(いせぬまたのみくりや)(三重県松阪市)で起こった地頭代(じとうだい)の押妨(おうぼう)事件に関連して地頭であった重忠が捕らえられ、梶原景時(かじわらかげとき)の讒言(ざんげん)で逆心を疑われた際、頼朝に逆心を抱いていないこと、武士に二言はないから起請(きしょう)文など書く必要はないことを主張し、頼朝に信用された話は有名である。
1190年、1195年頼朝再度の上洛に先陣を勤めるなど頼朝に仕えたが、1205年子重保が北条時政の後妻牧(まき)氏の女婿平賀朝雅(ひらがともまさ)と争って時政に殺されたあと、6月22日重忠も北条軍と武蔵二俣川で戦って討ち死にした。
長享2年(1488)に、山内・扇谷の両上杉氏がこの須賀谷原で戦い、戦死者七百名、馬は数百匹が倒れたとされ、戦いの激しさを伝えています。
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周囲は堀によって隔てられ、北側と西側には土塁も築かれています。
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近くには 上野国と武蔵国を結ぶ古道 鎌倉街道が残されています。この街道は国分寺瓦や須恵器などを運んだ道として、あるいは、武蔵武士たちが往来した道として利用されてきました。街道に沿う地域には、平安時代から戦国時代にかけての寺院、板石塔婆、城館跡、古戦場などさまざまの史跡や文化財が集中しており、中世において、多くのできごとが菅谷館跡を中心にして展開されてきたことをうかがい知ることができます。
パンフの館図面
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それでは場所を確認しましょう

車はここに置いて 見学しましょう!(史跡博物館も一緒に見られます)
小さいお子様連れの方は 芝生で遊んだり出来ます!
岡ポン評価
5段階評価(俺3以下の通信簿だったな!)
景観  2 お手軽度 5 感激度 2 

それでは 皆さん史跡めぐりに 行ってらっしゃい!

埼玉・群馬の戦国時代


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